[戦国ロマン息づく歴史の舞台]
孫子の旗 武田不動尊像 |
戦国の乱世下、骨肉相喰む同族間の激しい争いを鎮圧して甲斐一国の統一という偉業を成しとげた信虎、その後継者として武田勢力圏を甲信二か国を本拠地として相・駿、さらに西上野にまで拡大した信玄、そして武田氏最後の武将として悲運な道を歩まざるを得なかった勝頼へとつながる父子三代と塩山市とのかかわりは実に深いものがある。 天文10年(1541)6月、信玄は父信虎を駿河の今川義元のもとに隠居させて、21歳で自立し、甲府躑躅ヶ崎館を拠点として甲斐国を統一した。 信玄は家臣の厚い信望のもとに、貧しい山国を開発し、駿河一円、信濃の大半、上野・遠江・三河の各数郡、さらに美濃・飛騨・越中の一部におよぶ広大な領地を形成し、戦国期最強の武将として近隣から恐れられた。 信玄は領国の拡張と分国政治をすすめるうえに、精神面においても配慮のあとがみられる。 それがために宗旨・宗派を問わず知識、英衲とうたわれる名僧・高僧に私淑し、仏教はもとより中国の儒教・道教を禅僧を介して教えを受け、「三教一致」の思想をもって対処した。 それを如実に示しているものに孫子の旗(疾如風徐如林侵掠如火不動如山)がある。 この旗は武田軍の象徴であるとともに、武田信玄の信条である。 平安・鎌倉時代よりの仏教とその文化に育まれてきた塩山市とその周辺地域が、甲斐国の信仰の中心地を形成してきた。 このことが戦国末期における武田三代との結びつきを父祖の代にもまして強く深いものにしたといえるのではないだろうか。 とくに信玄自身は、幼少のころから文学や宗教に強い関心を抱いて育ったため、向嶽寺・恵林寺・雲峰寺などが保護された。中でも知られているのは、天文16年(1547)5月、向嶽寺に壁書を与えて学問を奨励、同時に「心地の修業、俗事に思慮を労するな」と戒めていることである。 また熊野神社の修復と保護、雲峰寺・菅田天神社を武運長久の祈願所とし、放光寺に対しても真言檀林にふさわしい処遇をしている。 さらにまた信玄は塩山を、秩父・武州口に通ずる往還ぞいに位置し、軍事上の要衝地点・守衛地であったことから、松尾郷(現在の松里地区周辺)に異母弟の松尾信是を配し、信是病没後は、同じく異母弟の川窪兵庫助信実の子信俊に松尾氏の名跡を継がせて松尾郷に居住させ、秩父口守衛の任にあたらせた。 一方、武田氏の軍政・外交を経済の面で大きく支えた金山開発を大菩薩嶺・黒川に求め、於曽周辺に居住する有力家臣団蔵前衆の中から金山奉行を任命して支配させるなど、信玄時代にはとくに重要拠点となった。 塩山は上代から三枝氏・於曽氏・板垣氏など有力官人・豪族らとのかかわり合いがあった地であり、これは戦国期に至っても武田氏の目が強く向けられたゆえんである。 |