サイトマップ [ 戻る ] [ ホーム ] [ 上へ ] [ 進む ]
自然と文化遺産の宝庫「えんざん」
山梨県塩山市は、甲府盆地の北東に位置する街、甲州の鎌倉と呼ばれ、歴史的な文化財の数々で有名です
寺の参道を進み境内に入ると、心のやすらぎを感じさせてくれる。 それだけ壮大な伽藍が自然にマッチして美しい。 また、本格的な精進料理の味を楽しませてくれる寺として、近年一躍有名になった。 寺は高橋山放光寺(こうきょうざんほうこうじ)といい、元暦元年(1184)、甲斐源氏新羅三郎義光の孫、源清光の子、安田義定が開創した。 義定は鎌倉幕府の創立に尽くした甲斐源氏の名将であり、寺は安田一族の菩提所である。 武田信玄も祈願所として厚く保護した。 むかしは塔頭12、木寺70カ寺を持つ大きい寺であったが、天正10年(1582)、織田信長の兵火で恵林寺とともに燃上し、慶長年間徳川家の援助で寺は再建された。 寺に残る大日如来・愛染明王・不動明王像は、いずれも重要文化財の指定をうけ、寺の歴史の重みをずっしりと感じさせる。 ○本尊の大日如来坐像は平安末期の作、品位と造形美にすぐれています。 ○天弓愛染明王坐像は愛染堂の奥深くに祀られてきた平安末期の寄木造りの像です。 ○不動明王像は定朝系仏師の作と伝えられ、平安末期の作風をよく伝えています。 |
本堂と庫裡
大日如来・愛染明王坐像(国重文) |
|
塩山 向嶽寺(こうがくじ) 塩山の地名の由来である「塩ノ山」を背にした、臨済宗向嶽寺派の大本山です。 富嶽、つまり富士山に向かう寺、という意味で、向嶽寺の名があります。 武田信玄の八代前にあたる武田信成が、抜隊得勝を招いて、康暦2年(1380)に開創しました。 たび重なる火災で往時の姿はとどめていませんが、難をのがれた中門は桃山時代の様式を伝えるもので、重要文化財に、その左右に延びる築地塀は別名「塩築地」ともよばれ、室町時代の特徴を残す、県指定の丈化財になっています。 寺宝である「絹本著色達磨図」は、「朱達磨」とも、「八方にらみの達磨」ともよばれる鎌倉時代の作品で、「楯無鎧」とともに国宝に指定されています。 境内には「十五夜お月様ひとりぼち・・・・・・」で有名な大村主計の「花かげ」の碑がたてられ、訪れる人々の詩情をさそっています。 |
向嶽寺 絹本著色達磨図(国宝) |
|
寺は臨済宗妙心寺派の寺で、本尊は11面観音菩薩。武田時代、つつじが崎の館からみて鬼門に当たり、古来からの名刹であった。 うっそうとした杉木立の長い石段を登り切ると、眼前が開け、静かな寺のたたずまいは、ひときわ美しい。 武田氏代々の戦勝祈願所で、仁王門・書院・庫裏・本堂は重要文化財で、信玄の父、武田信虎の再建と伝えられる。 寺には武田家ゆかりの寺宝が多く、天喜4年(1056)、後冷泉天皇が清和源氏源頼義に下賜され、のち武田家の総領職がうけ継いだ日本最古と伝える「日の丸」の御旗や、武田の軍旗で信玄の陣頭に立てた、馬標旗・孫子の旗・諏訪法性旗などが伝わっている。 |
本堂
孫子の旗・日本最古の日の丸の御旗 |
|
『社記』によると大同二年(807)、紀州熊野権現の様式にならって六神六社の社殿を造営したと伝えられるので、本来は六社の本殿があったことになる。 正面の石垣の上に拝殿があり、さらにその奥に一段と高く本殿が五棟並んでいる。 そのうち向かって右二棟の春日造りの本殿と、拝殿が重要文化財である。 本殿の屋根は桧皮葺(ひわだぶ)きで、棟に千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)をのせている。 鎌倉時代の建築手法を伝える遣構として、建築史上貴重なものである。 拝殿も重要文化財で様式上室町時代末期のものといわれ、入母屋造りの屋根は美しい。 |
本殿 |
|
菅田天神社(すがたてんじんじゃ) 御旗とともに、武田家代々の家督相承のしるしとされてきた「小桜葦鎧兜大袖付」を祀る菅田天神社は、甲斐源氏の守護神としてあがめられてきました。承和9年(842)に国司の藤原氏が建て、寛弘元年(1004)に菅原道真を相殿に祀ったので菅田天神といわれるようになりました。 小桜葦威の鎧は、矢や刀を防ぐのに楯はいらないという意味から「楯無鎧」(たてなしのよろい)とも呼ばれ、国宝に指定されています。 平安末期と椎定されますが、源平が勢を得る時代、一門の棟梁が馬上で着るのにふさわしい見事な鎧です。 勝頼が減亡の折、跡継ぎの信勝が元服・鎧着の式をまだあげていなかったため、急いで陣中でこの鎧を着けてすませ、その後、父子で自刃したとつたえられています。 鎧は向嶽寺に埋められましたが、徳川家康により再び菅田天神社に奉納され、社宝として受け継がれてきています。 |
菅田天神社 楯無鎧(国宝) |
|
天龍山 慈雲寺(じうんじ) しだれ桜の美しい天龍山慈雲寺は、中萩原地区の「自然探勝路桃源コース」の中ほどにあり、暦応年間(1338-41)に夢窓国師が開創したと伝えられる、臨済宗妙心寺派の寺である。 本尊は11面観音である。 江戸末期の白巌・徳宗・悟道禅師らによって私塾が開かれ、地域の教育に力を尽くした。明治になって紹憲令岳禅師のころ、いっそうの教育の必要性を感じ、明治38年(1905)、私立学校の認可を受け「山梨里仁学校」を創立した。 寺の境内には、明治の女流作家樋口一葉の文学碑や、真下晩菘の碑がある。 付近には一葉や木食白道の資料もある。 |
しだれ桜と本堂 |
|
※甘草屋敷(かんぞうやしき) 塩山駅から北へ約三分行くと、切妻屋根の住宅が見える。 重要文化財の高野家住宅である。 高野家は江戸時代、代々名主をつとめた家柄で、三代将軍家光のころ、薬用植物の甘草栽培を命ぜられ、甘草を幕府に納めていたので別名「甘草屋敷」のよび名がある。 住宅は桁行24.8メートル、梁間10.9メートルの一重三階の切り妻造りで、屋根の中央を高く二段に突き上げ、明りとりと通風の便をはかっている。 このような形式の屋根は養蚕飼育に適していて、塩山市やその周辺にはこの屋根の形の民家が多くみられる。 高野家住宅は、享保年間(18世紀前半)に建造されたといわれ、往時をしのぶにふさわしく、その風格は素ぼくで堂々としている。 |
高野家住宅(甘草屋敷) |
|
鎌倉時代の代表的な豪族の屋敷跡である於曽屋敷は、市の下於曽地内にあり、県の史跡に指定されている。 屋敷跡は東西115メートル、南北153メートルと広大で、二重の土手がめぐらされている。 於曽の起りは平安中期ごろからはじまるが、鎌倉時代甲斐源氏加賀美遠光の子、四郎光経がこの屋敷を構えた。 その後子孫が於曽氏を継承し、武田信玄の代には板垣氏が於曽氏を継ぎ「於曽殿」といわれ活躍した。 この屋敷のまわりには、黒川金山の採掘を管理した金山衆の多くが屋敷を構えていたことも伝えられている。 また、採掘した金の製れん作業場もあったともいわれ、この屋敷は金山関係者の役宅の伝承もある。 屋敷跡の半分は史跡公園として整備され、中世豪族屋敷を知る貴重な資料である。 |
於曽屋敷 |
|
大菩薩嶺の上日川峠から、裂石嵯峨塩(さけいしさがしお)林道を日川沿いに下流へ進むと、嵯峨塩温泉に出る。 この一帯を嵯峨塩渓谷といい、すがすがしい渓流の音を聞きながら、春の新緑と、秋のもみじを深勝することができる。 嵯峨塩温泉は、むかし武田の家臣で地質にくわしい者が、この地域に鉱泉のあることを予知し、探索すること数年、ついに泉脈を探し当てたので「さがし湯」といったのがはじまりといわれ、信玄の隠し湯として知られている。 嵯峨塩渓谷をさらに下ると、大和村に入り、日川渓谷は竜門峡とよばれ、武田氏ゆかりの天目山栖雲寺(せいうんじ)、武田氏滅亡の古戦場田野の景徳院に出て国道20号線、JR中央線の初鹿野(はじかの)駅に出られる。 |
嵯峨塩渓谷 |
|
「甲斐八珍果」の一つである柿や栗は、古くから市の西部、井尻・三日市場・小屋敷・藤木など旧松里地域の特産品で、江戸時代に、枯露柿・栗を幕府に献上した資料ものこされている。 現在の主産地は松里地区で、11月初旬になると農家の軒先には、干柿(ころ柿)のすだれがつり下げられ、地域の風物誌として季節の到来を教えてくれる。 この時期は柿の皮むき作業やすだれ作りに終始する。 やがて干柿の肌はアメ色にかわり、農家の軒先からすだれが姿を消すと、甲府盆地は本格的な冬を迎える。 |
枯露柿 |